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   八甲田 春スキー         

 大自然の真っ只中、雪の野山を自由に歩きまわり自然と一になる春スキーは素晴らしい。 八甲田、高田大岳を背に猿倉岳を目指す。                                                                   

邂逅の山              画・文 益田義則
12 北八つ 天狗岳
 平成16年1月、雪のちらつく中、コースを外すと膝まで潜る賽の河原を、楽しむように4人でルートファイデング。素泊まりの高見石小屋にザックをデポして、白駒池に行く。白一面の白駒池に立つのは実に21年ぶり、当時を偲び感激に浸る。
 翌朝小屋を発つとき、永年愛用してきたプラブーツが一部破損した。原因は劣化なのか、一抹の不安を抱えたまま天狗岳に向かう。
 紺碧の空のした、中山峠付近で目にした眩しいほどの新雪を被ったシラビソ等の針葉樹の木々、その奥に東、西天狗岳が鎮座して、まさに自然織りなす芸術だ。その秀逸な光景にしばし立ちつくす。

「ためらいて踏む新雪の白さかな」

2007.1 No384
11 阿弥陀岳 北稜

 平成元年12月、赤岳鉱泉に6人でテン泊。翌朝、横岳石尊稜をやる2人、阿弥陀岳に2人、私はS氏とバリェーションルートである北稜に挑戦。お互いの成功を祈り出発。中岳のコルからトラバースし、ロープをしっかり着け、潅木のある急な雪稜を詰める。核心らしき1ピッチ目の岩壁が立ち塞がる。 期待と不安、緊張が交差するなか、クラックを登りビレーしてS氏に合図。先日2人でアイゼンを着けての岩トレ、その成果と勇気を一緒にナイフリッジ等を渡り、冬期登攀を終わる。そして 赤岳山頂で合流し、強風の中6人でツエルトを被り、達成感と安堵感を胸に祝杯を挙げた。
 山名は山岳宗教に由来して、頂上には阿弥陀如来の石像があり、多数の講中碑が奉じられている。また、西にある御小屋山は、戦前までは諏訪大社祭の御柱として伐採したことから、別名御柱山という。


2006.11 No383

10 甲斐駒ヶ岳

 昭和60年11月、2人で夜行列車に乗り韮崎へ。タクシーで竹宇まで行き、早朝暗いなか尾白川に架かる吊り橋を渡る。山は雪の凍てつく冬の気配。そして度々出てくる梯子と鎖、標高差およそ2、200mある日本三大急登のひとつ黒戸尾根はタフだった。
 五合目にツエルトを張り泊まる。朝、出発が遅れ、鳥居があるご来迎場の先、九合目付近でリーダーのS氏よりタイムアップ宣言。日が暮れて膝まで潜る落ち葉の山道を、バス停に向かって二人で必死に駆け下りた。入会後一年目のことだった。  山名の由来は、甲州に巨摩郡駒城村などの地名があり、かつて山麓地方に馬を産する牧場が多く、それに因んだものらしい。
 深田久弥が登ったのは昭和14年。その年、深田久弥作詞、高木東六作曲の「ヒュッテの夜」が国民歌謡として流れた。


2006.10 No382

 9 石鎚山

 平成3年10月、西日本最高峰、石鎚山と第2峰の剣山へ、高速バスとレンタカーで四国 徳島に入る。単独という気楽さか、少しワイルドな運転になったが、剣山に立ち、祖谷 かずら橋等も見学する。翌日、石鎚スカイライン終点の土小屋から石鎚山を目指す。
 二の鎖、三の鎖共70m近い、修験者達のステージが天を突くように延びていた。岩壁の緊張から解放され、頂上小屋のある弥山に立ち、紅葉と霧氷の美しさに感激し、さらに最高峰の天狗岳から瀬戸内海、松山市までも俯瞰することが出来た。
 修験者のメッカとして名高い石鎚山は西暦704年、役子角が開山したと伝えられ、毎年7月1日から10日間、御山開き大祭が行われ、白装束に身を包んだ山伏姿の信徒が、西日本各地から何万人も登拝するという。


2006.9 No381

8 御嶽山

 昭和62年9月、木曽福島を通り、王滝コースである標高2180mの田ノ原で仮眠。北の空に大きく広がっている御嶽を見上げながら、潅木やハイマツ帯を通る。
 山中には所々霊神碑や石像が立っている。この日、王滝頂上社務所で閉山式が行われ、一般登山者の代表として玉串を捧げた。お祓いの後、宮司と少数の白装束の人に交じり、茣蓙の上で御神酒を頂いた。
 社の裏手から、硫黄の噴気が立ち上る火山の脈動を肌で感じながら、頂上の剣ヶ峰に向かった。
 大宝2年(702年)、役行者によって開山。御嶽に滝は1200本もあり、火山湖の三ノ池(2720m)は深さ13mを越える御神水。
 江戸末期から明治の初めにかけて、毎年何万人も登ったといわれ、梅雨明けの頃には、各地から講中の人々が集まり、現在でも信仰登山は脈々として続けられている。
 

2006.8 No380
7 水晶岳
 昭和63年8月、室堂ターミナルを後に雄山で参拝。立山はまさに夏本番。雑踏から抜け出し3日目の朝、ダイヤモンドコースと呼ばれている太郎兵衛平から黒部五郎岳に登り、水晶岳(黒岳)を目指す。
 三俣山荘辺りで遠雷を耳にするが、気にせず頭上の鷲羽岳に立つ。大声で雷に怒鳴られ、反省しながら転がるように駆け下る。アドレナリンの出方も最高潮に達し、それが通じたのか暫くして許してもらい、水晶小屋に辿り着いた。翌朝6時、4日目にして山頂に立つことが出来た。深田久弥は「たいていの山は、その頂上から俯瞰すると、平野か耕地か、煙の立つ谷か、何かひと気臭いものを見いだすが、黒岳からの眺めは全くそれを絶っている。四周すべて山である」水晶岳はまさに北アのど真ん中であった。古い記録では、六方石山と記されているので根気よく探せば、六角柱の水晶が採取できるとか?


2006.7 No379
 白山
 平成4年7月、夜通し走り続け登山口の別当出合には、仮眠なしの朝になった。広大な弥陀ヶ原で別山を仰ぎ、初めて見るハクサンコザクラに感動する。室堂平の祈祷殿を通り、本宮白山比盗_のある御前峰に立つ。火山噴出口だったと考えられている池には雪があった。
 下山路、永平寺からきた大勢の修行僧達が、朱色の衣を纏った大僧正を先達に、六根清浄を唱えながら登拝していたのが印象的だった。
 富士山、立山とともに日本三名山の白山。山名の由来は、麓から仰ぐ雪白きからきている。養老元年(717年)越前の僧、泰澄が初めて白山に登り修業し、開山したという。
 日本海の水蒸気をたっぷり吸収し、北西の季節風をまともに受けるため、山頂の千蛇ヶ池には万年雪がある。これより西には高い山はなく、ハイマツは白山より西では見られない。

2006.6 No378
   5  月山

                          
 昭和63年6月、山形自動車道はまだ 開通していなかった。姥沢着早朝5時、仮眠することなく山スキーで姥ヶ岳に立つ。シールが効いたのもここまでで、板をデポし雪融けに咲く花々を見ながら山頂に向かう。月山神社で合掌。6月にしてはまだ寒く人影はなし。途中弥陀ヶ原から登拝してきた笑顔の老夫婦に会っただけだった。
 出羽三山の開祖は蜂子皇子で、修験道の租といわれた役ノ行者、また各宗派の開祖、弘法大師、慈覚大師等が来山し、修業したことが伝えらている。
 江戸時代の参拝者を見ると、延享2年、月山通過の者は38.000人を数えたという。雨情、白秋と並んで、詩人の西條八十も昭和24年6月、古賀政男と羽黒山に詣で、参拝帳に記している。
 月山神社本宮に農業の神「月読」を祀ってあり、山名の起こりはこの辺りらしい。芭蕉も奥の細道行脚の途次、三山
に巡礼し、「雲の峰 幾つ崩れて 月の山」の句がある。 

2006.5 No377 
           4 針木岳
                         
 平成6年5月、アルペンルートの玄関口、扇沢より針ノ木岳を目指した。
目映いばかりの春の陽光と雪の反射との戦い。シールを効かせて急斜面を登高すること6時間。山頂からは剱岳はじめ、後立山連峰や遠く槍等の眺望を満喫する。そして谷を目がけ、風となり一気に滑り降りた。
 天正12年(1584)の戦国の世、立山のザラ峠から黒部川に下り、秀吉と和議のなった家康を再考させようと、富山城主、佐々成政の信州と越中と結ぶ「針ノ木越え」は有名な伝説となっている。
 明治11年に針ノ木峠を越えたイギリアルプスの二大イベントになっている。また氏は「山を想えば人恋し 人を想えば山恋し」という名文句を残している。

2006.4 No376
          3 五 竜 岳
                         
 昭和60年4月、大糸線神城駅に降り、五竜遠見スキー場からテレキャビンを利用して地蔵の頭に登る。大遠見を下った鞍部で初めて雪洞掘りを体験した。
 雨からの雪も上がり、翌朝ワカンで屋根まで埋もれた五竜山荘まで登り、そこでアイゼンを装着する。山頂直下で攀っている仲間と、雲海を眼下に見たときは迫力があり、6時間近くかかったが、五竜山頂に立つことが出来感激した。
 東面の上部には残雪期、顕著な菱形の岩が見られる。山名の由来は、この地を支配していた武田信玄の紋所「武田の御菱」が転訛してゴリュウになった説や、後立山連峰の中央部に近く「後立山」の音読みになった説など、五竜岳はかつて山名考証で山岳会を賑わせたようだ。
 現在の五竜岳となったのは、明治41年(1908)に登った三枝威之介氏が、案内人に山名を訪ねた時、「ごりゅう」と言ったので、仮に五竜として報告文を書いたのが、確固として動かなくなったようだ。


2006.3 No375
       2 浅間山

                         
 平成7年3月、3人で峰の茶屋から山スキーで山頂を目指す。火口から2q以内登山禁止の立て札を尻目に、自己責任ということで2568mの浅間山山頂に立った。
 恐る恐る火口を覗くと、黄色や鉛色の強い毒性のありそうな火山ガスが、モクモクと噴煙を上げていた。その様をカメラに収め、北面を滑降しはじめたが、上部はヤスリ状で雪面は固く厳しかった。
 浅間山は火山国日本でも極めつきの活火山で、火口は直径約500m、深さ150mと言われているが、常に変動があるらしい。
 噴火記録は40数回になるが、天明3年(1.783年)の大噴火は特にすさまじく、火砕流が嬬恋村を襲い、家を埋め尽くし500人ほどの村人の命を奪った。また吾妻川を堰き止め決壊し、利根川流域に大災害をもたらした。
 偏西風の関係で、降灰も長野県を一部かすめるが、災害のほとんどは群馬県側で、鬼押し出しもこの時の名残りだ。
 山麓の三宿の一つ、追分の浅間神社には「吹き飛ばす 石も浅間の 野分かな」の芭蕉の句碑がある。 

2006.2 No374   
      1 谷川岳
                       
 昭和62年2月、朝方までの吹雪でさらに積もった谷川連峰。
 胸までのラッセルを4人で交代しながらスコップで掻き分け、なんとか天神尾根直下まで進み、雪洞を掘りあげる。
 翌朝、穏やかな好天に恵まれたが、熊穴沢の避難小屋でタイムリミットやむなく撤退、無理せず下山した。
 関東側と越後側を分ける日本列島背梁地の一部で、東京と清水峠の気温の差は夏でも9〜10度あり、加えて強風、豪雪雪崩、濃霧といった悪条件が重なり、気象の変化が激しく、晴天でも急変することが多いという。
   

2006.1 No373

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